昨日の日記の新年会で1年ぶりに会った兄弟弟子からメールが来たんだけど、その中に「??」と思う一文があった。

「ティダさん、あまり元気が無かったから悩みがあるんだなと思った。でも語らずとも察するのが仲間だから、また楽しい食事をしよう。」



・・・・私はどうやら、元気が無かったらしいけれど。

自分では至っていつも通り、まあ相棒とギクシャクしたまま東京に来たから気にはしていたけど、んなこと「悩み」なんてもんじゃないし第一その時はすっかり忘れていた。

彼女と私は、同じ師匠につく兄弟弟子として長年のあいだ喜びも悲しみも分け合ってきた。しばらくして、彼女は結婚して子供ができ退会したんだけど、その後は6年以上も「新年会でだけ会える仲」になっていたのね。

彼女にとって、私の何が「元気なさそう」に見えたのかは定かでないが、昔の私は確かに若さゆえ(?)落ち着きが無かったし、いつも元気で口数も多かった(ような気がする)。今の私はその頃に比べ、落ち着いて人の話をよく聞くことができるようになった(と思いたい)。

もしかしたらそんな変化が、彼女にとっての私のイメージと違ったことで「何か元気がない」と言う印象を持たせたのかも知れない。


こういうことって、よくあることだ。


人は、刻々と変わっていくもの。
けれど時々、昔はよく会っていたけど今はほとんど連絡も取っていないという友達に対して、昔のままの関係や印象のままで接してくる人が、いる。

もらったメールの「察するのが仲間だから・・・」という部分に、私はどうしても違和感を感じてしまう。

私のことを気にしてくれている、温かい言葉だとは思う。

でも・・・何をどう、察しているのだろうと思うと何とも言えない変な気分になる。

どうしても、この「小さいようで大きな勘違い」に引いてしまうのよね〜、悪いなぁと思うけども。

私自身、「同じ人でも昨日と今日では別」だということを、人と関わる時の鉄則だと思っているからなぁ。

付き合いの長い友達でも、会うたびごとになるべく先入観無しで接していたい。そうすれば相手がどんな状態でも、動揺せずに受け入れることができる。

人の体を構成する60兆個もの細胞は、常に死んでは生まれ変わっていることだし。

いつも新しい自分。新しい友達。

「応無所住而生其心」

〜応(まさ)に住する所無くして其の心を生ずべし〜
                 (金剛般若経 より)

私の好きな禅語。

禅を通して悟りを開いてゆくために、大切な心の姿勢だ。

経験を蓄積して作った先入観は、社会生活を営むためには不可欠なもの。でも、それに捉われ過ぎてはいけない。

1通の何気ないメールで、また色んなことを学ばせてもらえた。

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