Time is money?
2004年5月13日ああ本当に、
毎週の 毎日の 毎時間の
何と早く過ぎ去っていくことか!!!
そう思う時にいつも、鍼の先生が言っていたことを思い出す。
「ティダさんなぁ、僕最近な、普通の時間感覚っちゅーもんが無くなるねん。10年前のこととか先週のこととか、つい1時間前のことなんかが渾然一体となるっちゅーか、時系列を越えてしまう感覚やねんな。ティダさんもあるやるろ?そういう事。これからもっと増えてくんねんでー。わはははは。」
確かに、時間の感覚がまるで無くなる事はけっこうある。
ボーっとしていてはっと気付いたらけっこう時間が経っていたとか、ある出来事が先月のことだったか3ヶ月前のことだったかよくわかんないとか、すごく辛い事があったのはいつで楽しくて仕方なかったのがいつのことだったかなんてどうでもよくなったりとか・・・。
でもそれって、ボケちゃいますのん?危ないじゃないですか、センセー!
な〜んて、半分茶化すように言っていたあの時の私・・・
でもその裏に、とても大切なことが隠れていることも感じていたのだった。
確かに人は、自分の行動や記憶を一貫して把握できない状況になると「私の頭、大丈夫かしら?」なんて不安になったり、そこに仕事が絡んでたりすると「能力が無い」とか「迷惑かけられた」なんて他人を責めたりする。
そりゃそうだ。社会生活には「一貫性」が欠かせない。
でも、私の好きな作家・玄侑宗久さんはそれについて著書の中でひとつの明確な見方を示してくれている。
芥川賞作家でありながら禅宗の僧侶であるというユニークな玄侑さんによると、時間とは「人間にとって最大で最後の煩悩」だそうだ。
人間は、潜在意識の部分で時間感覚を「排列」と「経歴(きょうりゃく)」という形で作り上げている。
そう、自分の存在を認識するために欠かせない「一貫性」を求めて勝手に作り上げているのだ。
「排列」っていうのは「昨日寝て今日起きた」というようなことで、寝た時も起きた時もそれぞれは「今」という瞬間のはずが、こう表現することによって初めて「時間」が流れたことになる。あまりにも当たり前のことだから、私達は普段そんなことに疑問を投げかけることなんて無いけれどね。
「経歴」についてはもうちょっと思い当たることも多くて、例えば「昔は苦しかったけど今では楽しいことばかり」と言ったとする。でも本当は、苦しい日々にも美味しいものを食べたり遊びに行ったりした楽しい時もあれば、楽しい今でもちょくちょく辛いことがあるだろう。でも、起こったこと全てを話してたら膨大な量になって到底まとまらない。日常生活で何かと一貫性を求めたくなる私達は、時間認識についてかなり大胆に省略したり並べ替えたりしている訳だ〜。
そして、その選択方法は至って流動的。だって「その時の気分」で過去の認識も未来の希望もコロコロ変わってしまうのだから。
こんな風に私達が絶えず縛られている「時間」は、唯識仏教でいう「マナ識」いわゆる「潜在意識」の部分で作られていて自己の存在に一貫性を持たせようとしているんだけど、その1つ上というか奥にある「アーラヤ識」ユングの言う「集合的無意識」は更に深く大きく、そこには全ての経験の印象が保存されている。そこでは時間が「排列」されたり「経歴」されることなく、ただただ存在しているのだろう。
年齢も性別も、経験も人種も国家すら超えた「人間」の大きな大きな無意識の繋がり・・・私は昔からその存在を意識していた。というか、そこを意識しないと納得できないようなことが幾つもあった。そう感じる人は、少なくないんじゃないかなぁ?
そこで、鍼の先生だ。
あの時、治療が終わって待合室でお茶なんか頂いてるときにフラッとやって来て、さっきの話を何の前触れも無くボソッと言い残してまた患者さんの治療に戻って行ったっけ・・・。
今になって、先生が言いたかったことがもっと良くわかった気がするよ。たぶん先生は意識の通りが良くなるとどんどん深いところまで行けるよ、繋がれるよって伝えたかったんじゃないかな〜なんて思う。
そんなところから見る自分は、この世界は、どんなものなのだろうか。まだまだ想像の域を出ないけど、何だかワクワクしちゃうのだ。
なんてことをつらつら書いていたら、もうこんな時間!
メシ食って仕事に行く支度をしなくっちゃ!
ああ本当に 時間ってヤツは・・・。
毎週の 毎日の 毎時間の
何と早く過ぎ去っていくことか!!!
そう思う時にいつも、鍼の先生が言っていたことを思い出す。
「ティダさんなぁ、僕最近な、普通の時間感覚っちゅーもんが無くなるねん。10年前のこととか先週のこととか、つい1時間前のことなんかが渾然一体となるっちゅーか、時系列を越えてしまう感覚やねんな。ティダさんもあるやるろ?そういう事。これからもっと増えてくんねんでー。わはははは。」
確かに、時間の感覚がまるで無くなる事はけっこうある。
ボーっとしていてはっと気付いたらけっこう時間が経っていたとか、ある出来事が先月のことだったか3ヶ月前のことだったかよくわかんないとか、すごく辛い事があったのはいつで楽しくて仕方なかったのがいつのことだったかなんてどうでもよくなったりとか・・・。
でもそれって、ボケちゃいますのん?危ないじゃないですか、センセー!
な〜んて、半分茶化すように言っていたあの時の私・・・
でもその裏に、とても大切なことが隠れていることも感じていたのだった。
確かに人は、自分の行動や記憶を一貫して把握できない状況になると「私の頭、大丈夫かしら?」なんて不安になったり、そこに仕事が絡んでたりすると「能力が無い」とか「迷惑かけられた」なんて他人を責めたりする。
そりゃそうだ。社会生活には「一貫性」が欠かせない。
でも、私の好きな作家・玄侑宗久さんはそれについて著書の中でひとつの明確な見方を示してくれている。
芥川賞作家でありながら禅宗の僧侶であるというユニークな玄侑さんによると、時間とは「人間にとって最大で最後の煩悩」だそうだ。
人間は、潜在意識の部分で時間感覚を「排列」と「経歴(きょうりゃく)」という形で作り上げている。
そう、自分の存在を認識するために欠かせない「一貫性」を求めて勝手に作り上げているのだ。
「排列」っていうのは「昨日寝て今日起きた」というようなことで、寝た時も起きた時もそれぞれは「今」という瞬間のはずが、こう表現することによって初めて「時間」が流れたことになる。あまりにも当たり前のことだから、私達は普段そんなことに疑問を投げかけることなんて無いけれどね。
「経歴」についてはもうちょっと思い当たることも多くて、例えば「昔は苦しかったけど今では楽しいことばかり」と言ったとする。でも本当は、苦しい日々にも美味しいものを食べたり遊びに行ったりした楽しい時もあれば、楽しい今でもちょくちょく辛いことがあるだろう。でも、起こったこと全てを話してたら膨大な量になって到底まとまらない。日常生活で何かと一貫性を求めたくなる私達は、時間認識についてかなり大胆に省略したり並べ替えたりしている訳だ〜。
そして、その選択方法は至って流動的。だって「その時の気分」で過去の認識も未来の希望もコロコロ変わってしまうのだから。
こんな風に私達が絶えず縛られている「時間」は、唯識仏教でいう「マナ識」いわゆる「潜在意識」の部分で作られていて自己の存在に一貫性を持たせようとしているんだけど、その1つ上というか奥にある「アーラヤ識」ユングの言う「集合的無意識」は更に深く大きく、そこには全ての経験の印象が保存されている。そこでは時間が「排列」されたり「経歴」されることなく、ただただ存在しているのだろう。
年齢も性別も、経験も人種も国家すら超えた「人間」の大きな大きな無意識の繋がり・・・私は昔からその存在を意識していた。というか、そこを意識しないと納得できないようなことが幾つもあった。そう感じる人は、少なくないんじゃないかなぁ?
そこで、鍼の先生だ。
あの時、治療が終わって待合室でお茶なんか頂いてるときにフラッとやって来て、さっきの話を何の前触れも無くボソッと言い残してまた患者さんの治療に戻って行ったっけ・・・。
今になって、先生が言いたかったことがもっと良くわかった気がするよ。たぶん先生は意識の通りが良くなるとどんどん深いところまで行けるよ、繋がれるよって伝えたかったんじゃないかな〜なんて思う。
そんなところから見る自分は、この世界は、どんなものなのだろうか。まだまだ想像の域を出ないけど、何だかワクワクしちゃうのだ。
なんてことをつらつら書いていたら、もうこんな時間!
メシ食って仕事に行く支度をしなくっちゃ!
ああ本当に 時間ってヤツは・・・。
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