香港に来て、早くも3日目。

今日は香港島サイドで遊んでみよう!

とは言え昨日夜更かしし過ぎた3人、朝はゆっくり起きて11時頃友達のアリスと一緒に朝・昼兼用の食事をした。

尖沙咀の「ホリデイ・イン・ゴールデン・マイル」ホテルで、彼女と5歳の息子”立信(ラップソン)”君と待ち合わせ。

アリスとは、知り合ってもう6年になるだろうか。彼女とご主人が経営している観光客向けのお店に、私が行ったのがきっかけだった。接客にきたアリスと話が弾み、日本に帰ってからも手紙や電話で連絡し合う仲になったのだった。

通りに面したホテルの入り口で彼女達を待っていると、行き交う人波の中から大きなマスクをかけたアリスと立信の姿が目に飛び込んできた。

今、香港ではマスクをかけている人は殆ど見かけない。SARSも落ち着いているし、トリインフルエンザもまだ深刻な事態と思っていない。けれど、アリスは割と慎重派の上に現在妊娠7ヶ月だから外に出る時は必ずマスクをするようにしているらしい。

「久しぶり〜!元気だった?これが息子の立信よ。」

「わー!会いたかったのよ、初めまして!」

五分刈りのくりくり頭に、パッチリした目が可愛らしい立信。初めて会う私達3人にも全く人見知りせず笑顔を見せる。

さっそくホテルのレストランに入り、席に着くや否や立信はひっきりなしに私達に話しかけてくる。
「僕は何歳生まれだと思う?」なんていう他愛の無いことから、「お父さんはパソコン持ってるの?それはXP?プロフェッショナル?」などと言う大人も顔負けの話題まで・・・(ちなみに父ちゃん、この質問に答えられず)。

ああ・・・ 私の広東語は5歳の子供に負けてるわ。

約2時間かけて、美味しい点心をお腹いっぱい食べて最後に絶品のマンゴープリンで締めくくってもう言うこと無し!
ただ、アリスとじっくり話せかったのが残念だった。この次に彼女に会いに来る時には、もう赤ちゃんが生まれているだろう。また会えるのが今からとっても楽しみだ!

さて午後は、繁華街の喧騒を離れてのんびりムードを味わうために赤柱(スタンレー)に行くことにした。

地下鉄に乗り中環(セントラル)駅まで行き、そこから2階建てバスの最前列に陣取って約30分のプチドライブ。中環を出発したバスは、のっぽビルが立ち並び車と人に溢れかえった湾仔(ワンチャイ)・銅鑼湾(トンローワン)を走りぬけ、山を越えて香港島の南側へと走ってゆく。
浅水湾から赤柱あたりの道は、海沿いで景色がとてもきれい。でもけっこう山の高いところを通っていくし、ましてや2階建てバスの最前列に座っていると足元は見えずまるで宙を飛んでいるような感じがしてけっこうスリルがあるのよ。
実は高所恐怖症の父ちゃん・・・バスを降りてから「怖かった」と白状してた。

赤柱は、きれいな海に面した静かな街だ。道沿いにたくさんの店が立ち並び、服・印鑑・水晶や翡翠などのアクセサリーや中国雑貨などを売っている。

別の場所には欧米人がたむろするオッシャレーなカフェが軒を連ねていて、夜になるとムードのあるバーになる。ここで海風に吹かれながらコロナビールなんかを飲んでると、香港にいることを忘れてしまいそうになる。

そこでさっそく、私達も真っ昼間からピザとビールを頂くことにした。オープンカフェの店先に座り渇いた喉にビールを流し込む・・至福の時!
今日は土曜日、通りでは家族連れや恋人同士などたくさんの人達がのんびり楽しそうに散策を楽しんでいた。

父ちゃんも母ちゃんも、今日になってすっかり香港の水と空気になれた感じだ。2人に香港の印象を改めて聞いてみると・・・

父「香港の人は、何をするのも勢いがあるねぇ。」

母「お母さん、住もうと思えば住めるわねぇこの国。」

うははは。女ってやっぱり順応性が高いのかしら。

ほろ酔い気分でお店を後にして、赤柱マーケットを冷やかして歩くとあっという間に日が暮れてきた。

今夜は香港滞在最後の夜だから、香港島の山の上「ビクトリア・ピーク」から名物の夜景を見に行くことにしていた。
友達のジョーソンを誘ってある。彼はマカオに一緒に言ってくれたマシューのお兄さんだ。

また2階建てバスに乗り、待ち合わせの中環に戻る。6時半、高層ビルにきらびやかな灯りが灯る頃ジョーソンと久しぶりの再会だ。

「こんばんわ、はじめましてジョーソンです!」

彼もまた、日本語が上手。黒いジャケットとズボンに縁なし眼鏡をかけ、髪を短く切ったジョーソンはひと昔前の(失礼!)正統派二枚目という感じ。
この兄弟、きれいな二重の目と言いスッと通った鼻筋と言い、実は美形なんです。性格は全く違うけど。

ふと見ると、母ちゃんがなんだか嬉しそう。面食いなのは母のDNAだったのね。

さて、夜景の見えるピークまでは「ピークトラム」というケーブルカーに乗る。このトラム、途中45度という信じられない勾配で登っていく。父ちゃんも母ちゃんも目を丸くして乗っていた。

香港に来たら誰でも1度は訪れるピーク。天気が良ければ昼も夜も素晴らしい景色を見ることができる。夜ともなれば香港名物100万ドルの夜景が目の前に広がって、恋人同士じゃなくてもローマンチックな気分になること請け合い♪

だけど、残念ながらこの日はガスッてしまい夜景が雲の中に霞んでしまった。ま、こればっかりは仕方ないね、きっと「またおいで」ってことなのよ。

ピークにはカフェやレストランもありそれぞれとても雰囲気が良いし、みやげ物店やちょっとしたアトラクション、蝋人形館まであるピークギャレリアがあってひと回りすると面白い。でも楽しみだった夜景が見られないとなると、急に空腹を訴え出した父ちゃん母ちゃん。

そこで、尖沙咀に戻りベトナム料理を食べに行くことにした。

店に入り、まずはベトナムビールでかんぱ〜い!!ジョーソンと私でメニューを選び、生春巻きやカレービーフンや蟹の炒め物などを堪能した♪
この頃にはジョーソンもすっかり打ち解けて、普段はほとんど飲まないお酒を父ちゃんに付き合ってグイグイ飲んでいる。もちろん母ちゃんも私も飲んべえだから、食べ初めて30分もすると4人とも酔っ払いモード突入。

実は、香港では外でお酒を飲んで酔っ払ってる人を見かけることはまずない。

香港人の間では、「酔ってヘロヘロ状態」になることが恥ずかしいことと思われるのだ。だから日本みたいに金曜の夜電車の中が酔っ払いで酒臭くなるようなことは毛頭ないし、酔ってクダをまいたり道端に座り込んだりするなんて考えられない。

だから、私達意外は全員香港人のその店の中で、4人の酔っ払いはかーなーりー浮きました。
でも、長い付き合いであんなに大声で笑って楽しそうなジョーソンを初めて見た。真っ赤な顔して既に崩壊寸前の日本語をムリに操りながら、「ぼく〜うれしですねぇ。あなた達と会えてよかた。」とニコニコ。こちらこそ、忙しい仕事のやりくりをして会ってくれて、本当に嬉しかったよ!!

実際、私が香港に通う理由は彼ら友達に会いたいから。そんな親友を両親に紹介することができて良かった・・・。

11時頃だったか、食事を終えて外へ出ると香港のきらびやかな看板が酔った頭に怪しく語りかけてくる。この不思議な魅力を持つ香港は、父ちゃん母ちゃんにとってどんな思い出になるのだろうか!?

再見・香港!!
2日目の朝・・・8時前に目が覚めた。

カーテンを開けると、空はどんよりと曇っている。11階から見下ろす通りでは、仕事に向かうサラリーマンが足早に通り過ぎていく。

よおし、今日も遊ぶぞ〜! まずは朝ごはんだ。

ホテルから5分ほどのところに、行きつけのレストラン「頂好」がある。香港に来たら必ず行くので給仕のおばちゃんとも馴染みになった。

そこで、お粥や叉焼包や小龍包などのウマウマ点心をほおばる。う〜ん、これこれっ!!
2人はお粥に大感激。日本のお粥とは全然違うトロ〜リとした食感と、魚や肉などの具によって微妙に違う味付けにすっかりはまったみたい。

「あら〜!来てたの?今回はパパとママが一緒なのね〜!」

馴染みのおばちゃんが私を見つけて声を掛けてくれた♪

次々と運ばれてくる点心をきれいに平らげて、腹ごしらえ終了〜。その後は、ブラブラ買い物などをした。

ところが父ちゃん、普段あまり歩かないのですぐに足が疲れてしまう。そこでホテルで一休みすることにして、その間私と母ちゃんは全身&足ツボのマッサージに行くことにした。(父ちゃんはマッサージ嫌いらしい)

尖沙咀には何軒ものマッサージ店があるけれど、今回は3年ほど前に行ったことがある「足保健」と言うお店に行くことにした。そこは技術も値段も文句なし、スタッフがみな独学で日本語を勉強している熱心さも好きなの。

全身マッサージ30分+足ツボ30分で400ドルのコースに決定。

まずは丸い穴の開いたベッドにうつ伏せに寝て、穴から顔を出す。するとマッサージ師のおばちゃんが、背中・腕・足・頭をまんべんなくモミモミしてくれる。微妙に痛くても、体がほぐれてくると気持ちイイ!
そのあと仰向けになり、腕と足・頭・肩と首もモミモミ。30分で「ほぇ〜・・」状態に仕上がってしまう。

次に足ツボ。これはちょっと痛いよ。
おばちゃんが「ダイジョブ?」と笑う。「好痛〜(痛い)!」広東語で返す私。横を見ると母ちゃんが、まるで修行僧のように目を閉じ眉間にシワを寄せて揉まれている。

痛さにも慣れて余裕が出てくると、おしゃべりに花が咲く。こんな時私は、ここぞとばかり色んな話題を振ってプチ広東語レッスンにしちゃうのだ♪

香港の近況(トリインフルエンザやSARSなど)、芸能ニュース、流行の食べ物や映画のことなどなど・・・。もともと香港人はおしゃべり好きの人が多いからあっというまにヒマな人も加わって大盛り上がりだった。

そうしているうちに、文字通り頭のてっぺんからつま先まですっかりほぐれた。母ちゃんも「足がすごく軽くなったわ〜!」と満足顔。

ホテルに戻ると父ちゃんもすでに充電完了、良かった良かった。何しろ今日はこれからがメインイベントよ。香港人の友達マシューと一緒に、マカオに行くんだもの!

マカオは、香港から高速船に乗って1時間で行ける所。
マカオといえば・・・ポルトガル料理?ポルトガルワイン?それともやっぱり観光地巡り?

否!! 今回の目的はズバリ

ギャンブルよっ!!

法的に様々なギャンブルが認められているマカオ。この香港旅行が決まったとき、父ちゃんの最大の楽しみはマカオでギャンブラーになることだったのだ!

でも、私は行ったことがあるけれどギャンブルは未経験。マカオでも広東語が通じるとは言え、私1人では不安だったので事前にマシューに頼んで半日ガイドを依頼しておいたのだ。

そして、待ち合わせの4時。ホテルのロビーでマシューと久しぶりの再会♪・・・・って、あれ?

いつもの彼と、全然ちがーう!
明らかに「よそ行きの服」着てる!

カジュアルなんだけど、いつものヨレッとした気ままな服じゃなくてすごく小奇麗な好青年のイメージ・・・。知り合ってもう7年になるのに初めて見たよ。

「初めまして、宜しくお願いします。」
流暢な日本語で挨拶しながら、にこやかに握手の手を差し出すマシュー。緊張していた両親もすぐに打ち解けられたようだった。

さっそく尖沙咀のフェリー乗り場に向かい、4時半の便に乗る。
大型の高速船は座席がゆったりとして、乗り心地が抜群!全然揺れないから船酔いの心配もない。オマケにフェリーは24時間運航されてるから、香港に行ったら、ぜひ足を伸ばしてみてね♪

私の弟と同い年のマシューは、礼儀正しくて思いやりのある本当にいいヤツ。お互いの近況を話しながら大笑いしてるうちに、マカオに到着した。

さっそく路線バスに乗り、まずは繁華街へ。街並みは香港と似てるけど、旧ポルトガル領だったから中国と西洋が混じった感じだ。特に今は旧正月が終わったばかりなので、香港と同じくマカオでもあちこちにきらびやかな飾り付けが下がっていてとても華やかだ。

有名なセナド広場でバスを降り、腹ごしらえをしてから「セント・ポール大聖堂」まで、美しい街並みを楽しみながら歩いた。

ひとしきり写真を撮り、観光客丸出しではしゃぐ4人。ここは香港と違って、人がゆっくり歩くし街もきれいで気持ちいい。

そしていよいよタクシーに乗って「ホテル・リズボア」へ。この5ツ星ホテルに隣接するカジノは24時間営業、バカラ・ブラックジャック・ルーレットなど政府公認の全てのゲームができるのだ〜!

父ちゃんの鼻息はすでに荒く、私も初めて見るきらびやかな世界にドキドキ。荷物チェックと身体検査を受けて、ドーム型のカジノに足を踏み入れると、そこは・・・

       黒山の人だかり!

どのゲーム台も人垣ができて、何をやっているのか見えないほど。いきなり圧倒されてしまった。

そうか、今日は金曜日。ギャンブル好きの香港人が押し寄せてくるんだ。

マシューはさっそく、父ちゃんを連れてお金をチップに変えたりゲームの方法を説明している。すっかり自信がついたのか、父ちゃんは「みんながいると気が散るからどっか行ってくれば?」などとのたまった。心配だったけど、あとで迎えに来る約束をして私達3人はマカオタワーに行くことにした。

マカオタワーは東京タワーより5m高い、最近の観光スポット。エレべーターで一気に61階まで上り外に出ると、360度の夜景が広がってすごく綺麗!58階では何と床がガラス張りになっている部分があって、その上に立つとまっ逆さまに下まで落ちる錯覚に捉われてむちゃくちゃ怖い。母ちゃんは腰が抜けそうになっていた。

しばらく楽しく遊んでから、父ちゃんの様子を見にカジノに戻る。私達を見つけると、席を立ってニコニコ顔でやってきた。

結果は、15000円の軍資金で1時間半遊び、最後に残ったお金が7500円。でも、最初の賭けで大当たりして600円が21000円に膨れ上がったらしい。父ちゃん、もうすぐ70歳。根っからの博打好き、エンジョイしたね〜♪良かった良かった!

それからホテルでお茶を飲んだ。この時点ですでに11時・・でもますます賑やかになっていくカジノ。何か得体の知れないパワーで満ち溢れてるよぉ〜。

そして、12時発の船で香港に戻った。ホテルに着いたのは夜中の2時近く・・・遊び過ぎです。父ちゃん母ちゃんバタンキュー。
私はマシューと2人、夜食を食べに行った。彼には今日一日、本当にお世話になった・・・ありがとう!!

↓マカオの雰囲気を味わってみてね♪
http://www.tabicom.com/macau/
「あんたがそんなに好きだって言うし、1度は見に行かなくちゃねぇ。」

母ちゃんの何気ないひと言がきっかけで、親子3人の香港旅行がトントン拍子で決まった。

私の両親は、クリーニング店を経営している。父ちゃんがある日突然会社の上司と喧嘩して脱サラ、腕1本で開業してから早いもので26年が経つ。職人気質の父ちゃんは20年間は年中無休で働き倒し、それを支え続けてきたのが他でもない母ちゃんだ。(←娘と息子は何してたんだ?)

そうして、最近やっと自分達のために時間を使う余裕を持てるようになってきた。よっしゃ、ここはひと肌脱いで今まで苦労かけた分親孝行やったるでー!と、殊勝な思い付きをした私だった。

・・・・出発の朝は早かった。

最寄の駅から成田空港まで直通のリムジンバスが6時発。駅まではタクシーを拾うことにして、とにかく早く寝なくっちゃ・・・と思いきや。

父ちゃん・母ちゃんのテンション、異常に高し。
遠足前の小学生状態ぢゃないかっ!

まあ、しゃあないか。気持ちもわかるし楽しそうだし、こうなったら前夜祭だ。カンパ〜イ!!

そして、12時就寝。 起きるのは4時45分。

しかし案の定、3人とも眠れなかったり目が覚めちゃったりして完全に寝不足のまま大音量の目覚ましが鳴った。

すごい勢いで身支度を整えて外に出ると、真冬の空に星がチラチラ。さてタクシーを拾って・・・

んっ?

いつもの乗り場に、タクシーがいない! 1台もいないっ!
恐れていた事態が・・・しかし、ぐずぐずしている猶予は無い。

それから25分間、3人は重いキャリーバックを引きずりながらものすごい速さで駅を目指し歩いた。

自慢じゃないけど、朝の私は思いっきり低血圧。
何が悲しくてこんな夜明け前に、キャスターが転がる音を響かせながら荒い息で歩かなきゃいけないの。

ま、その甲斐あって無事バスに乗れ予定通り成田に到着。JAL9時45分発に乗り機上の人となった。

父ちゃんも母ちゃんも飛行機などめったに乗らず、海外旅行も2回目だ。窓の外の景色に釘付けになっている母ちゃんが嬉しそうに話す。

「ほらほら、きれいだねぇ〜。山に雪が積もってるよ。それにあの雲、あんなに速く動いてるよ、すごいねぇ〜。」

ううむ、母ちゃん。

すごい速さで動いてるのは、雲じゃなくて私達なんだよう。

「あら〜!そうだったねぇ、わはは。」 

自分達の乗った飛行機が、音速の85%というものすごい速さで飛んでいるなんて、まるでピンと来ない母ちゃんだった。

そんな私達を尻目に、父ちゃんは赤ワインなぞを飲んでご機嫌さんだ。

約5時間のフライトで、現地時間の2時(日本時間の3時)に香港到着。エアポートエクスプレスに乗ってホテルへ向かった。

今回泊まるのは、尖沙咀(九龍地区でも一番の繁華街)にあるYMCAだ。九龍半島の先っぽに位置し、湾を隔ててすぐ向こうに香港島のビル群を望める絶好のロケーション♪そして、この条件にしては、部屋代もリーズナブル。

3人ひと部屋で1泊15000円だから、1人5000円。
ホテルにこだわる旅は別として、今回私達にとっては帰って寝るだけなので嬉しい価格です。

ところが。

ホテルに着きキーをもらって11階の部屋に入ってみると、そこはどう見てもツインの部屋なのだ。

ドアを開けると居間に続く通路があってその左側がトイレとお風呂。その先にシングルベッドが2つ・・・。

エキストラベッドは後で用意しておきますと言われたが一体どこにもう1つベッドを置くのだろうか。

謎だ。   

そして 嫌な予感がする。

とりあえず、両替&ブラブラ歩きに街へ繰り出すことにした。

両替と言えば、ここんとこ本当に円が強い!!
今回のレートは何と、1HKドル=13.7円。
1万円が728HKドルにもなったのよ〜!!

円安になると1万円で両替できる香港ドルがどんどん減って、ひどい時は600HKドルを切るなんて事態もあったわね・・・。円高のお陰で、ちょっとした金持ち気分を味わえちゃう♪

ところでこの時期の香港は、平均気温13〜15度・湿度85%くらいなんだけど、今年は気温が低く最低気温が8〜9度になる日もあって”寒冷注意報”が出るほどだ。亜熱帯のこの国で、10度を下回るとお年寄りや病人は命の危険にさらされてしまう。

この日は、雲っているとは言え私達にとっては長袖シャツにジャケットでちょうどいいくらいだったけど、吹く風は香港にしては確かに冷たかった。湿度が高いから体感温度も低くなるだろう。

さて、初めて香港の地を踏んだ父ちゃんと母ちゃん。
人種の坩堝・絶え間ない車の騒音に圧倒されながらも、街の雰囲気を全身で感じているようだ(←妙に小動物っぽい)。

小腹が空いたので、店先に並んでいる怪しい串揚げを数本買い込み歩きながら食べた。出発前に「香港は屋台のものなんか食べたらお腹壊しそうだから絶対食べない」と言っていた父ちゃん、すでに理性もぶっ飛んで香港の毒牙にやられたようだ。よしよし。

ネイザンロードと言う目抜き通りをブラブラしながら、まずはノキアショップへ。私の香港用携帯電話の電池がイカレてしまったので新しいのを買った。

それから、デパートや免税店などを見て歩く。父ちゃんがお酒を厳選している間、ヒマだったので店員さんと世間話。久しぶりに広東語を使えるのが楽しくてしょうがない私♪

すると、店員さんが

「知ってる?今、毎晩8時になるとフェリー乗り場で花火が上がるのよ!対岸の香港島の夜景と一緒になってものすごく綺麗なんだから。絶対行くべきよ!!」

と教えてくれた。全然知らなかった!コレは見なくては。
時計を見ると7時半。今から行けばちょうど良い!

さっそく3人でフェリー乗り場に隣接する広場に行ってみると、すでに黒山の人だかり。みんな今か今かと待ち受けていた。

すると8時きっかり、香港島サイドに立ち並ぶ高層ビルのてっぺんから、音楽と共に白や緑のレーザー光線が飛び出し一斉に花火が上がった!!

うわぁーー!綺麗ーー!!

香港に来たのは今回が19回目だけど、こんなイベントを見られたのは初めてだった。免税店の店員さん、多謝〜!

ちなみに、こんな感じでした。↓
http://www.discoverhongkong.com/jpn/news/hkwy/index.html

30分ほどでショーが終わったあとは、美味しいお粥と点心とビールでお腹も満足。父ちゃんも母ちゃんも、ほんの数時間で香港の雰囲気にどっぷり浸かって楽しそうだった。

しかしその後、良い気分でホテルに戻り部屋のドアを開けた私達の目に、思いもかけない光景が飛び込んできた。

居間に続く通路に、エキストラベッドがドーンと置いてある。

・・・これって・・・

ベッドの上を通れっていうことっ!?

嫌な予感的中だが
ま、いいか。さすが香港。

3時間しか寝ていない頭じゃ文句も言えない、明日にしよう。

怒涛の親孝行へ

2004年1月27日

パタパタパタ・・・



ウロウロウロ・・・




グルグルグル・・・




香港行きが目の前で

慌しい私。


明日、5時まで仕事をこなしてその足で伊丹に向かう。その晩は東京の実家に泊まって、明後日の朝早く父ちゃん・母ちゃんと3人で成田から香港に飛び立つのじゃ〜!


2人とも香港は初めてだし、当然の事ながら英語も広東語もまるでダメ。
今回の香港旅行は、そんな両親に楽しんでもらうため私は添乗員に徹します。


・・・・

とか何とか言いながら


生き馬の目を抜くように、自分の楽しみもしっかり味わってこようっと♪


「香港ってどんなとこ?」状態の父ちゃん母ちゃん。とにかく行ってみなければ何が彼らのツボにグッとくるのか分からない!

見る物全てが珍しいだろうから、どんな反応をするのかが楽しみです。私もあんまり肩に力を入れずに仕切り過ぎないようにしよ〜っと。


何やかや言っても、むちゃくちゃ楽しみな私。

1度ならず真剣に住むことも考えたほど、大好きな香港だ。何がそんなに好きなのかと聞かれると困っちゃうのだけれど、これはもう「水が合った」と言うしかない。


んで、この間は気合いを入れてパーマをかけた。(←気合いのベクトルが違うような・・)


野生児のように伸び放題だった髪も、小奇麗になってサッパリ。

その行きつけの美容院で、最近「足ツボマッサージ」を始めたらしい。
フロアの一角をパーテーションで仕切って、足ツボの専門家が施術してくれる。


「今ならお試し期間だから、10分無料でできますよ〜」


そんな声にすんなり乗って、やってもらうことにした。


足ツボマッサージにも流派(?)がいろいろあって、ここは”台湾式”だった。

ううっ・・これは。多少痛くてもガマンよ!体が悪い証拠なんだから!っていうやつだ。

ちなみに英国式だと、ほとんど痛くない。


多少ひるみながら椅子に座る。
マッサージ師さんは、長い髪を後ろでキュッキュッっと結んでいかにも「押すわよ〜揉むわよ〜!」雰囲気満々のお姉さんだ。

蒸しタオルで足をさっぱり拭いてくれ、さっそく開始。道具は使わず、指や掌などを駆使して色んな揉み方をしてくれ・・・・・

いだだだだだだだあっ!!


「痛いですか?(ニッコリ)胃ですね。」


「はあ。」



ぐいぐいっ


○△■※〜▼〒☆★〜〜〜!!!!!


「痛いですね。(ニッコリ)腸です。」


はい  もう   すみません。


私、胃腸が弱いです。


もうすでにギブアップ状態の私に、彼女は優しくマッサージを続けてくれた。

おかげでその後は、あまり痛くなかった(ホッ)。
緊張もほぐれて余裕が出てきた私は、調子に乗って色々話しかけてみた。


すると!


いるのねぇ〜・・マニアが。
こんなところにも・・香港マニアが!


彼女も私に負けず劣らず、香港の魅力にやられちゃった人だったのだ!

無料お試しの10分はとっくに過ぎたのに、私の足をさすりながら香港を熱く語る彼女。

「どうしてでしょうね、あんなにゴミゴミした騒がしい街なのに、いるだけで何だか落ち着くんですよ〜!」


わかります・・・・。


ぜひ、お友達になりましょう!
さっそく、香港土産を買ってくる約束をしてアドレスの交換をして、やっと美容院を出たのでした。パーマ2時間、その後の足ツボ&香港話でもう1時間。どんだけ居るねん。


ああ、でも楽しかった♪


思いも寄らぬ出会いだった。


何気ない日常に、変化は潜んでいるね。


てなことで

明日から、更新がヒジョーにしにくくなります。香港でちょびっとでも書くつもりですが・・・どうなるか予想がつきましぇん。


香港旅行記は、あとからちゃんと書きますね!


それでは。


行ってきまあ〜す!!!




やっと行けた!ギターのレッスン!

何と今日が、私にとって今年初のレッスンでした・・・

無理もない。今月の出来事は、今から思えば全てが夢の中だったような気がするくらいだ。


お正月明けの初レッスンは・・・5日だった。

けれど。

行ける訳もなく。

次は12日、この日は成人の日で休みだったし、その次の19日は東京から帰って体調崩してダウン。

ああ、長かった。

久しぶりに先生と仲間に会えた♪
今度の課題曲も素敵なのよ〜

「when you wish upon a star」

ディズニー映画「ピノキオ」の主題歌で、誰でも一度は聞いたことがあるあの曲。これを先生がアレンジしてくれて、3人でベースとメロディとコードを別々に弾くようになってるの。

上手く決まれば、まるでオルゴールを聴いているような綺麗なハーモニーになる・・・はず。


3人のうち、生徒は私ともう1人の2人だけ。そこに先生が加わってるというわけね。


「え〜とティダさん、どのパートやりたいですか?」
頂いた譜面にササッと目を通してはみたものの、私・・・苦手なのよねぇ、譜面読むの。
タブ譜があるから何とか感じは掴めるけれど。


「うーん。・・・2段目やります!」


意味も無く張り切って答えた私。

だって、簡単そうに見えたんだもん。
そうしたらコレが、大はずれ。


「はい、じゃあティダさんは2段目っと・・。結構難しいっすよ。」


う。
先に言って下さい。

さっそくそれぞれのパート練習に取り掛かる。
アルペジオのアレンジがとっても綺麗だわ・・・・と、惚れ惚れしているヒマは無い!


この先生、人当たりはすっごく柔らかくて”癒し系”タイプなんだけど、レッスンは”体育会系”。女子供だからって、容赦はしない。

ワンフレーズを2・3回繰り返して「さあ合わせてみよう!」


・・・・・・いや〜ん。無理だっちゅーねん。


私も、一緒に受けてるもう1人の女の子も、

「う゛っ・・」

とか

「ひょえっ」

とか


言葉にならないうめき声を発しつつ、必死に指とフレットと楽譜を睨みつけている。

でも、そこはやっぱり大阪人。(私はまだ半大阪人?)

どんなにできなくても、眉間にシワ寄せて落ち込む前によしもと系ボケツッコミが沁み込んだ爆笑トーク炸裂で場が和む♪

そうよ。やっぱり音楽は楽しくなくちゃ!

と、居直ったところに、絶好のタイミングで先生がまた「ハイ、やり直〜し!」とダメ出し。


コード進行自体は決して難しくはない。だからこそ、テンポと弦の押さえ方を正確に。

1ヶ所だけ、指が裂けそうになるくらい指の間隔があくコードがあった。最初は「絶対ムリ!」と思っても、繰り返しているうちにいつの間にかできてくるから不思議だ・・・。

よお〜し、練習頑張るぞおっ!!
と、気合は充分なんだけど

29日から香港に行くのだよね。
1日に帰って来て、2日にはもう次のレッスン。
ひょえ〜 絶対練習量が足りない。
だいじょぶかあ〜




弾く!

今から弾いてくる!!



つくづく、私ってヘタレだわぁ・・・。

日記ね、書くネタはけっこうあったの。
時間も、そこそこあったの。
それなのに・・・それなのに・・・
ごごごごごめんなさいっ!!!!



ただ「寒すぎる」っつーだけで

更新サボってました!!!!



ちびっとだけ 言い訳ですが

うちのパソは思いっきり窓際にあって、ホントに寒い。しかも風邪っぴきだったので体の循環が悪く、いつもより冷え気味でしんどかった。



ハイ、そうです

要するにヘタレでした・・・すんまそん。



そして今日、久々にログインしてみれば
何と!
新バージョンになると言うではないか。

こう見えても(どう見えているのか?)新しもん好きの私はウッキウキ♪

でも、試用版は使わない予定です。秘密が見られないなんてつまんないし、バグも面倒なので。




さあ〜て、ここ最近の私だけど。


火曜日は、また熱がぶり返しちゃったのよ。
この日仕事は3ヶ所。朝起きたらすでに熱っぽくて、電車に乗って仕事場に着く頃には朦朧としていた。

なんとかレッスンをこなして次のクラスに移動、あまり意識が定まっていない。けれど長年繰り返しているパターンというのは、体が覚えているのね。まるで自動操縦のように電車とバスをを乗り継いで、正確に目的地に向かっていたわ。

でも、体の節々が痛くなるわ、オカンが(お母さんちゃいますよ)・・・悪寒が走るわで気分は最悪。
友達や相棒にメールで「辛いよ、苦しいよ。」と泣きごと漏らしまくり。

こんな時は、みんなからの返事が有難くて有難くて。特にありすさんの”愛の波動砲”はリゲイン並みに効いたわ〜!!!

そんなこんなで2つ目のレッスンが終わった頃には、いったん熱が引いてずいぶん意識がちゃんとしてきた。


お、これならあと1つも頑張れるかな・・・と思いつついったん家に帰ったら、ついにダウン。10カウントすんなり取られてK.O.よ。

ヨレヨレの手に携帯を持ち、やっとの思いで休講の連絡。
友達が心配して家まで来て、愛情たっぷり鍋焼きうどんを作ってくれた・・・ああ、感激。


その夜は、ぐっすり眠ることができた。

人の優しさに触れて、自分でも思いも寄らなかったほど安心したみたい。

朝になると熱はすっかり引いて、目が覚めたときの気分の良さで風邪が治ったことがわかるほどだった。


その日、水曜日は仕事がいちばんハードな日。

あの辛さがこの日じゃなくて、本当に助かった・・・・。

木曜も金曜も、いつも通り仕事をこなすことができた。今にも死にそうなメールに驚いて心配していた相棒も、「ひと晩で治ったの?」と拍子抜けしている様子。

私も、自分の体にびっくり&感謝感激だった。



体は、24時間365日、健康でいようと働き続けてくれる。

小さなかすり傷ひとつできただけでも、複雑な指令系統が働いて何種類もの細胞が総動員される。

スゴイなぁ〜  

生命の神秘だなぁ〜
今夜もよーく休んであげようっと!

(↑ただぐうたらしたいだけなんじゃ・・?)

金曜日から東京出張でした。
今日 帰って来ました。
ふう。

行きの飛行機、金曜夕方の伊丹→羽田便。

このフライトは殆どがサラリーマンのスーツ姿で埋め尽くされるの。
9割近いんじゃないかなぁ。

その中に、私服の男性や子連れのお母さんがほんとにチラホラ。

私みたいに遊びに行くんだか仕事に行くんだか判断しにくいメンツが極少数ね。
そしてこの日もほぼ満席状態だった。

ところがね、

窓際2列の席に座った私の隣が、空席だったのよ。こんなことって去年は無かった。毎月1回行ってるから12往復してるのによ。

シートベルト着用を促しに来たフライトアテンダントさんにも「めったにないですね」なんて笑顔で言われたりして。


ゆっくりと滑走路に向かう外の景色を眺めながら、空いている隣の席をチラと思う。

どんな人が乗るはずだったんだろな。

急用でキャンセルかな。
すると  ふと先生を思い出した

「・・・・一緒に東京に行きますか。」

くくくっ。

我ながら全く感傷的な発想だわ!
でもまあ、
それだけ私にとって大事な人だったんだよね。



東京のお稽古とお仕事は、いつも通り。

師匠や兄弟弟子や生徒さん方に今年初めて会ったので、「今年も宜しく!」の挨拶を心を込めて繰り返した。

実家に行くと父ちゃん・母ちゃんもつつがなく暮らしていた。
香港行きが目の前(29日出発)なんで、ウキウキ気分で可愛かった。
そんなこんなだったけど土曜日、

東京では雪がちらついて相当冷え込んだの。
何となく喉がいがらっぽくなって、”・・・これって?”と思っていたら

案の定日曜には熱が出てきちゃいました。
風邪で熱が出たのは、本当に久しぶり。

相棒が単身赴任になる前から、風邪で寝込むことが無かったからきっと5年ぶり以上だ。

この日、夜からお稽古だったけれど兄弟弟子と一緒にご飯を食べているうちに節々が痛くなってきた。

多少の熱くらいなら、お稽古で治った事が何度もあったから今回も大丈夫かなと思っていたけど、体が「カンベンしてくれ〜!」と泣いていた。

そうかそうか。

やっぱり、いろいろ辛かったんだねぇ。

ということで、師匠に詫びを入れて(笑!!)家に帰ったよ〜ん。

現金なことに、帰って父ちゃん母ちゃんの顔を見たら熱がスーッと引いたけどこれで油断してはダメダメよ。

ポカリスエットのボトルとタオルを枕元に置いて、早々に布団に潜り込みました。

その夜

朝までに2度、汗びっしょりになって目が覚めた。熱がどんどん下がっていく。

トイレ行ってポカリで水分補給して下着替えて・・・。また眠りにつく。

そうしたら、朝までに3回

先生が夢に出てきたよ。



1度目は、真正面から向かい合って私に何かを訥々と語ってくれ

2度目は私が必死に「せんせ〜い!せんせ〜い!!」って呼んでる声も聞こえていないみたいに、赤いダッフルコート着たまま苦しむ子供の治療をしていた。

そして3度目は・・・

残念ながら上手く文章にできないのよ!
1番長くて複雑で、ストーリー性ほとんど無しで文字にしても私以外の人には「何のこっちゃ」でつまらなそう。

でも、そうは言ってもここまでふられて何にも書かないじゃあ失礼なので、大まかに表現するとね・・・

治療してもらったのよ。

ものすごくキョーレツな方法で。

(↑想像力を最大限に駆使して下され♪)



突然先生と別れなければならなかったあの日から、私はずっと声が聞きたかった。

だから夢に出てきて欲しいと思っていたのに、今まではかすりもしなかった。

けどやっぱり

そこは鍼灸師ですね。

出てくるポイントがはっきりし過ぎ! 


夢で聞いた先生の声、

「かまへん!」
「絶対治しちゃる!」
「う〜ん、こいつがなぁ・・判らんねん。」

などなど。

目が覚めても、頭はボーッとしたままだった。

でも 最初に浮かんだ台詞は

先生に治療していただいた後、数え切れないほど何度も繰り返した言葉
「ありがとうございました」

お陰で今日は、咳が残るものの熱はすっかり下がりました♪

気の持ちようと言ったらそれまでだけど、何だかむちゃくちゃ安心した私。

はぁ〜・・これはもうすでに

「怪しい新興宗教」と同じか。

ブルブルブル。



帰りの飛行機、今日午後3時半。

これもいつものフライトだけど乗車率は8割くらいで結構いっぱいだったなぁ。

今日の天気はそこそこ雲が出ていたけど、上空に上がってしまうと紺碧の空が眩しいほど。

窓際に座った私は、離陸直後から富士山を楽しみにしていた。
あっという間に江ノ島を見下ろす。
機体はまだまだ上昇中だ。

箱根の山が黒々と見えると、もうその先には富士五湖がきらめいている。
そして・・・・

見えてきたぁ〜    富士山!!!

雪をかぶり、”大沢崩れ”も生々しい。
良く見ると頂上では西の風が強く吹きつけ、雪煙が舞っている。

綺麗だなぁ・・・
思わず合掌(←ええ、わたしゃあオバサンよ)


そう言えば前回富士山を見たのは、元旦の夕方だ。

相棒と一緒に東京に向かう飛行機の窓から、今まさに陽が落ちようとしている時だった。

黄昏に黒く沈んでゆく姿が、美しくも物悲しかった。

ちょうどその頃、先生は家族や親戚と祝いの宴を囲んでいた。

そして その数時間後に

旅立って行ったんだな。



ああ いかんいかん

泣けてきた。  

まーだ泣くか!  しつこいなー 私も。

こんなに感傷的だったのは

隣の席が、帰りもまた空席だったせいだよ。

 

去年、爆発的にヒットした「世界にひとつだけの花」。

歌唱力はこの際触れないとして、いい歌だと思うな〜あの歌詞が。


私は、他人と競うことを好まない。
けれど「競争」が悪いこととは思わないんだ。


小学生の頃は、授業でも遊びでも色んな事で他人と比べられ、優劣をつけられた。

他人より劣っていたり負けたりすると、子供なりに悔しかったり落ち込んだりしたけれど、逆に自分の得意なことをきちんと自覚して伸ばす努力を重ねることができた。

そんな毎日で、小さなことに一喜一憂するいたいけな少女(←異議申し立ては受け付けません)にとって、何よりも支えになったのは母の言葉だった。


特に誰かに比べて私のほうが劣っている時、かあちゃんは絶対怒らなかった。「もっと頑張りなさい」とか「どうしてできないの」という言葉を決して言わなかったなー。


子供ってさ、とうちゃんかあちゃんに愛されたいと思うのは当たり前だけど、それ以上に自分のことで傷ついたり失望したりされると自分がすっごく悪いことした気分になって、とてつもなく悲しくなるよね。


大人になっても変わらないけど・・・親を悲しませたくないってやつ。

そんな、できないことをなじられることなくのびのびと過ごせた小学校時代は、私の人格形成の重要な部分を占めているようだ・・・


などと考えてみる、真冬の夜。

話をヒット曲に戻すが、


昔・・・1979年頃だと思うんだけど、ゴダイゴの「ビューティフルネーム」という歌がヒットしたよね〜。

エ?知らない?  

お姉さん、ショック。


この歌も歌詞が素敵だったのよ〜。こないだ作ったCD(ナツメロ特集)にしっかり入れちゃいました。


♪どの子にもひとつの
 いのちが 光ってる

 呼びかけよう 名前を
 素晴らしい  名前を♪


名前って不思議・・・

いつからか、その人らしい名前・名前にぴったりの人柄になってきたりする。


そう言えば香港に遊びに行ったとき、たまたま隣に居合わせた香港人の会話が印象的だった。

「日本人ってさ〜、名前呼び間違えるとすぐ気を悪くするでしょう?中国人に比べてすごく種類が多いから、覚えるのが大変なのよね!」

全くどうしてそんなことで怒るのかしら、とでも言いたげな表情。
そういや、そうだな〜としみじみ考えた私。


私も、名前を呼び間違えられたり忘れられたりするとかーなーりー寂しいかも。

名前を呼ぶってことは、一番簡単で基本的な「他人を認める行為」だもんね。
○○さんですね、私はあなたを認識していますよって言う・・。

だけど、仕事上たくさんの生徒さんを持つ私は、時々名前をど忘れしちゃう!そんな時は、シンプルに平謝りよ〜。

そうそう、M嬢が鍼日記を見せてくれた時いいことを教えてくれたの。

彼女も私も、先生に毎年年賀状を送っていてね。もちろん先生も書いて下さっていた。

それは、旅行などで見て感動した景色の写真にコメントをつけたものだったんだけど、文章はパソコンで作ったもので全員に同じものを出していた。


ある時、M嬢は先生に言った。

「先生、毎年年賀状を下さってとても嬉しいんですけれど、ほんのひと言でもいいですから直筆でメッセージを入れてもらえたら嬉しいんですけど〜!」


すると、先生は即答。

「何ゆーてんねん!裏なんてどーでもええねん。肝心なのはな、名前や!宛名や!一人一人の名前を手書きでていねいに書くことが一番大切なんやで〜、わかってへんなぁ!!」


う〜ん、納得!!!


それにしても先生だったら、私達のような患者にまで書いたらものすごい数だったはず。


なのに確かに、宛名は必ず毛筆の手書きだった。


しかも達筆・・・・。修練を積んだ書道家が書いたような、それでいて先生の優しさが滲み出てくるような柔らかい字だ。


私も毛筆で年賀状を書くけれど、手書きで相手の名前を書く時は必ずその人のことを思いながら書く。自然に、そうなる。


先生・・・一人一人に思いを寄せながら、新年祝ってくれてたんだ・・・。



M嬢がぽつりと言う。

「ティダさん、私ずっと気になってたんです。
先生、元旦の夜に亡くなられたけど、私の年賀状読んで下さったかなぁ?先生は私のこと気にして下さっていたのに、忙しくってぜんぜん行けなかったから年賀状で”元気で頑張っています”って報告のつもりで書いたのに・・・。」


「Mちゃん、それ元旦に着くように送った?」

「はい。」

「それなら大丈夫!おばちゃんに聞いたんだけど、先生は元旦に医院に届いた年賀状はちゃんと読んだんだって!」


そう聞いたとたん、M嬢の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。

「よかった。ほんとによかった。先生に、私が頑張ってること知って欲しかったから。」


そうだよね、良かったね!


私はね・・・年賀状にこう書いたんだよ。

「旧年中は大変お世話になり有難うございました。今年もヤッパリお世話になる予定ですので、どうぞ宜しくお願いします!」


元旦には、笑って読んで下さったに違いない。



お風呂に限る♪

2004年1月13日

ひゅううううう。

さっっっぶいですねー(号泣)


今日は大阪でも暴風が吹き荒れてて
駅まで歩くだけで、髪の毛がすでに山姥状態。
こんなにちっこいちっこい目にも
ホコリが入りまくって痛かった。

風の又三郎・・・・

ふっと頭に浮かんだ。

風は季節を運んでくる。ほほを撫でる柔らかい風で春の到来を実感したり、分厚いコートの上からも沁みこんで来る北風に身を縮めたり。

地球は回る。太陽の周りを、次の季節へと。



ま、今日は
さっぶい中、あちこち移動して仕事してました

今日は秘密メモ、ちゃんと書きました♪


毎日が、
妙にゆっくり過ぎていくような気がする。

私にしては珍しいな

今までは、意味もなくバタバタして「忙しい〜!」と思うことが多かったのに。


今日は友達と飲茶バイキングランチに行った♪

飲茶に目が無い私、ところが悲しいかな本場香港の味を知り尽くしてしまった今、大阪で安くてウマイ飲茶にめぐり会える事が本当に少ないのだ・・・(泣)

そりゃあ福臨門なんかは別よ。
お金出せば美味しい飲茶が腹いっぱい食べれるけどさぁ・・・やっぱり飲茶は庶民的な価格じゃなくっちゃ。(←ビンボー人のひがみ)

ふっ。

でも、許しちゃう。


実はね、今月末に香港に行くんだもの〜っ!!

今年に入ってこんなに早く行けるとは思わなかった。
でも、ちょっとね、問題もあってね。

父ちゃんと母ちゃんを、お連れしなきゃいけないのよ・・・・(落)

誰かと一緒に香港に行くなんて、ここんとこ全然なかったし。何より1人で飛び回れないストレスにどこまで耐えられるか不明よ。

まあ、飲茶は人数が多いほど楽しいし♪
友達に会えるのも嬉しいから良しとしよっと!

2時間ほどかけてゆっくり食べながら、お互いに近況報告。
私の重たい話も、彼女は思いやりを持って静かに聞いてくれた。自分の気持ちに共鳴してくれる人と一緒にいるって、なんて安らげるんだろう。ありがたいな。

すっかりお腹も膨れて、

特に用も無くブラブラしていたら、コムサのバーゲン会場に遭遇。

買うつもりは全然無くて、変ちくりんなデザインの帽子を代わる代わるかぶって大笑いしていたら、ミョーに似合うのが1つあった。

タイミング良く通りかかった店員のおにいちゃんに、「うわぁ〜、すごく似合ってますね。」
などと言われ速攻その気になって購入。

仕事が早いのが私の自慢よ。(謎)

結構気に入っちゃって、そのままかぶって帰りました。今度会う時に見てね〜!(誰?)


それから早めに家に帰って一息ついていたら、M嬢からメールが。

「私の鍼治療日記、一緒に見ませんか?」


彼女は肩こりがひどくて先生のところに行くようになったんだけど、鍼を打たれて心と体の両方が劇的に変わると言う、思いも寄らぬ経験をした人だ。


嬉しいお誘いにいそいそと支度をして、すぐ近くに住む彼女を車で迎えに行った。

それから、ファミレスで4時間話しっぱなし!


先生は鍼灸師だったから、体の具合が悪い人をたくさん治してきた

当たり前のことだけど、「○○鍼灸院」という看板も掲げていた

んが しかし。


その看板は”表看板”であって、実はもう1つ”裏看板”があったのよね〜!

M嬢の場合も、最初は肩こりがひどくて我慢できなくなり治してもらいたいだけだったのに、それだけじゃ済まなかった・・・

と言うか、その先が本当の治療だった。

その瞬間、彼女にとって鍼灸院の看板はくるっと裏向きに変わったのだった。(怖っ!)
先生は治療の時、患者の心を診ていた。だからその人が抱えている問題を口に出さなくても、見事な正確さで答えることができた。

ううむ。

人によってはブキミな話かも。


そうそう、だから先生は誰にでも”裏看板”を使っていたわけじゃない。
自分の心や魂を見つめる準備ができていない人には、鍼を打って病を取り除いたら「はい、卒業!もう来なくても大丈夫ですよ」とフツーの診療をしていたっけ。

第一、鍼打ちに行ったのにいきなり「魂の波動がな」なんて言われたら思いっきり引くよね。
ところが
M嬢も私も、初日から”裏看板”ばっかり。

先生は、語り出すと熱かった〜!
M嬢の鍼日記はその一言一句正確に書いてあって、まるで先生がすぐとなりでしゃべっているような気がしたくらいよ〜。


一見、複雑で訳がわからなさそうなことも、先生は絶妙なボケツッコミ(一人二役!)を入れながら話すからおかしくて!
思い出しながら2人で大笑いしちゃった。


ああ・・・
何だかやっと、本当に心から笑えたみたい。


その日記の中にあった、先生の言葉。

「愛情はな、繋がってんねや、わかるか?生も死も超えてな。」

いやもう、参りました。

今なら痛いほどわかりますもん。
M嬢を家まで送った帰り道

心に暖かい明かりが灯っている事に気付いた。

これは・・・私の宝物。


もしこれから、真っ暗闇の道を歩かなければならない時が来たとしても

この明かりは消えることなく
私の足元を照らし続けてくれるのだから。


笑顔がいっぱい

2004年1月8日

木曜日のお仕事は2クラス。

2時半からと、6時半からという緩いスケジュールなので気持ちにも余裕ができる。

しかも地理的に車で行くのが便利なので、移動中も半分プライベートみたいなもん。
好きな音楽を聴きながら通い慣れた道を運転するのって好きだなぁ・・・♪


去年の8月から10月にかけて突然やってきた体の変化に苦しみ続けていた時、毎週木曜日は午前中に鍼へ行き治療のあと先生とおばちゃんと3人でお昼を食べ、それから仕事に行くと言うスケジュールが当たり前になっていた。

この木曜2時半のクラスと火曜の夜のクラスは、鍼灸院のすぐ近くにあった。
「仕事に行く道=鍼に行く道」だった約45分のドライブ・・・これからも週2回、続けていくだろう。


今日はドライブのお供に小田和正の「自己ベスト」を選んだ♪これがリリースされた時、先生はいち早く手に入れてよく聞いていた。
「ティダさん、ええよ〜これ。やっぱ小田和正やね〜!」ご満悦の笑顔で言ってたなぁ。


でも、先生が一番好きだったのは文楽。

いわゆる人形浄瑠璃、私にとっては馴染みの無いジャンルだけど先生があまりに熱く語るもんだから、こりゃあ見なけりゃソンだなと思ってしまったほどだ。

ある時、先生は文楽の楽屋裏に潜入(?)する機会があった。

その時、人形遣いの方に女形の人形を操ってもらい、背後から肩口にそっと手を置いてもらったそうだ。先生、そのリアルな色気に思わずぞくぞくっとしたらしい。これまた嬉しそ〜〜な顔で言ってたなぁ・・・・
ところで先生、生身の女性の色気はどうなんですか?と聞くと「ふぅ〜ん・・・あかんな。」

え〜!何があかんの〜?
それはもしかして、先生の経験から?・・・と聞きかけたがやめた。

だって、へんなとこ意地っぱりなんだもん。
真っ赤になって訳わからん理屈を並べるに決まってる。

それにしても、20代で趣味が文楽。
同年代とはなかなか話が合わなかっただろう。
能楽も好きだったし、お酒ならワインより日本酒。すでに立派なオヤジ仕様でしたな。

とにかく、伝統あるものや非常に手のかかるものを尊重し愛でていた。壺や絵画のカタログを見て、知識など全く無いのに一番高価なものを正確に当てていた。やはり、物事の本質を見抜く目を持っていたのだろう。


・・・・ん?

その割には、唯一買ったブランド品であるヴィトンの小銭入れが、思いっきりニセモノだったと知ってへこんでたっけ。

ぷぷっ。おっちょこちょいめ。


そんなことを思い出しながら車を走らせていると、CDから「言葉にできない」が流れてきた。

あなたに会えて
ほんとうに良かった

嬉しくて
嬉しくて

言葉にできない

ああ〜!!! ダメ、これは反則よ!!

涙が溢れて前が見えない。危ないぢゃないの!


そうだ、今日は仕事が終わったらあの店に行こう。
先生とおばちゃんと3人でランチを食べた、ちょっと変わったエスニックのお店。

そこには東南アジアによくある木彫りのお面がたくさん飾ってあって、先生は「怖い〜怖い〜。怖くて入れへん〜!」と半分本気でしり込みしていた。

おばちゃんと私に「何ゆーてんの!笑かすわぁホンマ。」と呆れられ、大きな体を縮込めるようにしてしぶしぶ席についてたっけ。



神業かと思うような治療をしておいて
小さい子供のように無邪気に笑う

ホンマ・・・

不思議な人やったわ。


誕生日の宴

2004年1月7日

仕事が忙しい1日だった。


でも今日、1月7日は先生の29歳の誕生日。

今年は何をプレゼントしようかって思っていたのに・・・先生!もらい損ねましたね。


でも、どうしても何かがしたくて

仕事が終わった帰り道、かわいらしい花束を買って先生の家に行くことにした。


突然だったので、お花を渡しお線香だけ上げさせて頂いて帰るつもりでいたのに、おばちゃんが「ご飯食べてって〜!」と言って下さり、なんとも図々しいと思いながらもご相伴に与ることにしちゃいました。


お父さん・お母さん・妹さんとおばあちゃん、そしていつもならそこに先生がいた、一家の食卓。手作りのおかずが所狭しと並んでいた。

「おにいちゃんもここにいるねんよ〜」と妹さんが指差したところには、遺影になったあの田んぼでの写真が飾られている。

ものすごく恐縮しつつ、席についた。


「このお肉、おいしいねんで〜」
「おつけもん食べや!」
「お茶おかわり、飲みはる?」
「ええねんよ、欲しいもんは遠慮なくゆうてや!」


みんなが口々に冗談を言っては笑い、先生の思い出話に花を咲かせては涙ぐんでいる。

家族を失った悲しみを受け入れ、乗り越えようとしている気持ちを、誰もがありのままに言葉にしていた。


突然訪ねて来た私のことも、まるで親戚のように気兼ねなく迎えてくれるのを見て、やっぱり先生はここを選んで生まれてきたんだとはっきりわかった。

そしてもちろん、先生の存在が家族の絆をどれだけ深めていたことか・・・。

先生の気配があちこちに漂っている。

実は、私はみんなに伝えたいことがあった。


それは私が見た夢の話だった。

一昨年の7月に見たその夢で、先生は「鍼灸院をたたむ」と言ったのだった・・・。


あまりにも印象に残った夢だったから、目が覚めてからすぐノートに書いておいたのを、昨日たまたま読み返して愕然としたのだ。


その夢の中で・・・・


私はホームに立っていた。ちょうど電車が入ってきて、それに乗り込み車内を見渡すと他の乗客に混じって先生が座っていた。

声を掛けて、しばらく雑談をしていると急に先生が苦しそうな顔をしてお腹が痛いと言いながらうずくまった。
ぱっと場面が変わり、電車の中で先生が上半身裸で横たわっている。とても苦しそうに。

私はどうしたら良いかわからずに、ひたすら先生の体や顔をさすった。すると突然、先生の痛みと苦しみが掌から伝わってきた。

「あぁ・・・先生、こんなに苦しかったんですね。痛かったですね・・・」

そう言いながらさすり続けていると、先生がむっくり起き上がって、
「治った!もう大丈夫や!」と笑い、こう言った。

「○○さん(私の本名)僕なぁ、職を変えようと思うねん。実はな、面接を受けたら合格してな!だから、鍼灸院をたたむことにしたんよ」

先生は本当に嬉しそうに、笑っている。

「え〜、そうなんですか?そしたらもう、先生の治療を受けられなくなっちゃうんですね。」

「いや、鍼の治療は続けていくで。けど、医院はたたむんや」

「そうですか。残念だけど、先生がすごく嬉しそうだし・・・良かったですね!」

電車が駅に止まり、それじゃ!と言って先生は降りた。そこは先生の自宅のある駅だった。

その時、先生は私に何かを言おうとしていた。そして私にも、先生に言わなければならない何かがあった。

どちらも言葉には出さなかった。けれど、お互いに同じ事を言おうとしているのがなぜかわかっていた。


場面が変わり、私はまたホームで電車を待っていた。

そして入ってきた電車に乗り込み、さっと中を見渡し先生を探した。

でも、そこにはいなかった。

私はホームに降り、電車はそのまま走っていった。

ホームに立たずむ私の心には、いつか必ず、もう一度先生に会えると言う確信だけがあった。

だから、寂しくも悲しくもなかった。


ここで、目が覚めたのだった。


息を詰めるように話を聞いていた妹さんが、目頭を押さえながら言った。

「ああ・・・ おにいちゃん、神様の面接に合格したんやね。」

私も、そう思うんです。

たかが夢、と思う人もいるけれど、
先生の家族なら絶対わかってくれると思っていたから話したかった。

もっと言ってしまえば


私は今日、この話をするためにここに来させて頂いたとも思えるのだ。

帰りがけに玄関まで送ってくれたお父さんが、先生とそっくりの優しい笑顔で言った

「先生のご加護がありますように」

私にも祈らせてください

先生の徳がいつまでもご一家を照らしますように

<1月5日(月)>

朝10時、第一報を知らせてくれたYさんと待ち合わせ。

ずいぶん早く駅に着いた。

先生のお母さんから「着いたら電話してくれれば迎えに行く」と言ってもらっていたけど、自分で探してみることにした。

改札を出て右側とは聞いていたけど、どの辺りなのかはサッパリわからない。
ただひとつ、とても静かな住宅街に住んでいらっしゃるはずと言う気がしていた。

足の向くまま角を曲がり、表札を確認しながら歩く。

すると、2分もたたないうちに先生の家の前に立った・・・。

ああ・・

先生、ちゃんと呼んで下さったんだな。

駅まで引き返してYさんと合流して、改めて玄関の呼び鈴を押した。

お母さんが、気丈に明るい声で招き入れてくれる。通されたのは縁側のある落ち着いた和室で、朝の光が満ちて暖かく穏やかだった。

その奥で、先生は笑っていた。

両側をきれいな花で埋め尽くされた先生の遺影。その写真は、どんな痛みも苦しみも包み込んで消し去ってしまう先生の治療と同じくらい、愛情に満ち溢れていた。

それは奇しくも、10月に田んぼの収穫でご一緒させて頂いた時撮ったものだった。
そうあの日は、うららかな秋晴れの日だったからみんなはしゃいで写真撮ったっけ・・・。

傍らに座ったお父さんが目を真っ赤にして言う。
「息子は私の、一番の理解者でした」


そうだ、一番辛いのはご家族の皆さんなんだ。
私がメソメソしちゃいけない・・・。


遺影の前に座り、ろうそくに火を灯す

お線香を立て、先生の顔を見て「ほんとうに、有難うございました」と言ったらもう・・・
悲嘆に暮れる私達に、妹さんとおばあちゃんも加わって、先生の子供の頃から今までの色んな話を聞かせて下さった。

とめどなく泣けて仕方なかったけど、先生らしいエピソードもたくさんあって最後にはみな声を上げて笑っていた。


その間にも、先生の鍼で救われたり心を広げられたりした人達が続々と集まってくる。

それぞれが、この辛すぎる別れを少しずつでも受け入れようとしている時、その部屋には不思議なほど穏やかな空気が流れていた。


小学生の頃、お坊さんになりたくて自分の事を「チンネン」と言っていた先生。

鍼灸師という職業を選んだけれど、やはり先生は苦しんでいる人を助けるために生まれてきたんだとしか思えない。

先生の戒名をつけ葬儀を受け持ったお坊さんが、「この人は体ではなく心を見て鍼を打った。とても浄い心の持ち主だった」とおっしゃって、ご自分のお父さんでもある亡くなったご住職の袈裟を棺に納めたそうだ。

お母さんが言う。

「今となっては、自分の息子であってそうじゃなかったような気がするんよ。ほんま、不思議な子やった。たまたまここに生まれてきて、天命をなし終えてまた帰って行ったんやね。」


私も本当にそう思う。
小さな赤ちゃんからお年寄りまで、首の寝違えから瀕死の重症まで、あらゆる人の病を「心を診て」治してしまうなんて。

開業してもうすぐ5年、先生を慕う患者さんは増える一方だったのに、どうしても天上界から必要とされたんだ。


「心配なん?何がやねん。ティダさんはもう、自分で自分を治す力を持ってんねんで。鍼なんか打たんでええねん!」

えーっ、先生、ほんとですか?

「ほんまやって。そうやって疑ったり不安になるからその力が出せなくなってるだけや。」

そうですね・・・。わかります。


ちゃんとわかってるんですけど・・・
もう一度、言ってもらえませんか?
しつこいようですが、
もう一度だけ、聞いてもいいですか?


会いたいですよ、先生・・・

会いたいです


気付いたらもう陽が暮れかけていた
時間の感覚がまるで無かった

もう一度先生に「ありがとう」と言って
外に出ると

1月の風はやっぱり冷たかった

現実と向き合う

2004年1月5日

<1月4日(日)>

今日は東京の実家から私は大阪へ、相棒は福岡へと帰る日だ。

昨日の夜あれだけ泣いた私は、当然目が腫れて人相がぜんぜん変わっていた。

起きてみんなに会う前に、氷で冷やしたけど全く効果なし。仕方なくそのままにして、「なんかむくんじゃってさー」と誤魔化した。


帰りの飛行機は相棒も私も夜7時半頃の便。


それまで少しでも気を紛らわせたかったので、相棒と2人で早めに実家を出て、またお台場に行くことにした。

電車に乗っていても、涙が溢れてきそうになる。でも相棒が明るく振舞ってくれて本当に助かった。


お台場に着いて、ウロウロしていた時

携帯にメッセージが入っているのに気付いた。

先生の妹さんからだった!

昨日の私のメールを見て、自宅の電話番号を残してくれていた!

これでやっと、何が起こったのか聞くことができる・・・

すぐに、かけてみた。

そして判ったことは・・・・

元旦の夜、家族と食事をしていた先生は気分が悪くなり、横になった。しばらくして「脈が普通じゃないから」と救急車を呼び自分の足で乗り込んで病院に向かった。
その途中、容態が急変。心臓に血液が回らなくなる”虚血性心不全”を起こして救命救急センターに搬送された。
一度は蘇生したものの、手当ての甲斐なく息を引き取った・・・・ということだった。


一週間後には、29歳の誕生日を迎えるはずだった。

まだ若すぎる上に体には(もちろん心臓も)持病は無く、まったくの「突然死」・・・。

それを知って、私は確信した。

やはり先生は天命を全うしてしまったんだ。
もう次の使命が与えられて、そっちに行かなければならなかったんだ。
羽田空港に向かい、相棒と別れた。彼はとても心配してくれた。実際、1人で大阪の家に帰るのは心細くてたまらなかった。


大阪に戻ると、やはり悲しみが大波となって襲ってきた。
この街にもう先生がいないだなんて・・・。

家に帰って、先生を紹介した友達みんなに電話をして訃報を伝えなければならなかった。

辛すぎる。


明日、その全員が先生の自宅に駆けつける。
もちろん私も。
ああ・・・先生の遺影を見なければならないなんて・・・。


****************



5日のできごとは、後日もう一度ここに書き足すことにします。

とりあえず今は、ここまで・・・・。



突然の知らせ

2004年1月4日

(以下は、3日の午後起こった出来事です)


それは携帯に入った1通のメールだった。

母とふたり、お台場で遊んでいた時のこと。

雲ひとつ無い真っ青な空、風も無く1月とは思えないほどうららかなお台場の公園を散歩している時に、大阪にいる私の生徒さんから来たメールを読んで、私の心臓は凍りついた。


それは、訃報だった。


私の主治医であり、人生を導いて下さっていた鍼の先生が亡くなった・・・とあった。

何?


意味がわからない。 誰のこと?


2度3度読み返して、思考が停止した。現実を把握しきれず、悲しいと言う感情もせき止められていた。


とにかく。
とにかく今は、母と一緒にお台場で遊んでいる。
楽しそうな母。
お正月気分で周りはみな穏やかに笑っている。

今は自分を欺かなければ。
もしも、現実を認識して受け入れたら、そこに立っている事もできなくなるほどの悲しみが襲ってくるだろう。


お昼時だったので

レストランに入って食事をした。

何を食べても味がわからなかったが何とか食べ終えて、母に「ちょっと友達に電話してくる」と言い席を立ち、震える手で生徒さんに電話をした。


電話に出た彼女の声も動揺している。

しかも、詳しいことが全くわからないらしい。
帰省から帰って留守電を聞いたら、先生が元旦の夜に亡くなり葬儀は3日の午後に自宅で行うというメッセージが入っていただけだった。

彼女はあらゆる手を使って先生の自宅の電話番号を調べたが、わからなかったらしい。葬儀に行きたくても行けないと言う。

とにかく、何かわかったら連絡してもらうことにして電話を切るしかなかった。

そのあと、母と私は3時から始まる東儀秀樹さんの新春雅楽コンサートを見ることになっていたので会場に向かった。


コンサートが始まり、楽しみにしていた雅楽の美しい音色が響き渡った。

でも、ちょうどその頃大阪では、先生の葬儀が行われているはずだった。


私にできることが、何も無いなんて・・・


先生の冥福を祈る気持ちを、雅楽の音色に乗せるしかない。胸の奥から吹き出してくる悲しみを押しとどめるのに必死だった。


コンサートも終わり、母は嬉しそうに「素晴らしかったねぇ〜」と笑っている。
私も精一杯自分を奮い立たせ、一緒に笑う。


家に帰り

父・弟・相棒とみんなで晩ご飯を食べた。
楽しげに食卓を囲む家族の中にいても、心の中で「なぜ?何が起こったの?」と言う想いがグルグル回り続けている。

とうとうイチかバチかで、先生の携帯に電話をしてみた。誰かご家族の方が出てくれればと思ったが、留守電になった。

それなら、メールは?
もうそれしか方法が思いつかない。

「どなたかこのメールをご覧になったら、どうかご自宅の電話番号を教えて下さい」

返事が来ることを祈るだけだった。

そして夜12時前。

やっと寝室で、相棒と2人きりになって・・・

悲しみが、胸からほとばしり出た。


まだ何も知らない相棒に、「先生が亡くなった・・」と言うのが精一杯だった。

私は生まれて初めて、「慟哭」というものがどういうものなのかを身をもって知った。

あんな泣き方をしたのは初めてだった。

全身が悲しみに包まれて、息ができなくなるかと思うほど肺を振り絞って泣いた。

もし、相棒が手をしっかり握ってくれてなかったら、耐えられなかったかもしれない。


先生・・・・


先生は、私にとってただの「鍼灸師」ではなかった。

2000年(平成12年)の3月8日。

水泳の練習で首筋をひどくねじってしまった私は、ひと月後に開業1周年を迎える先生の元を訪れた。私にとって、生まれて初めての鍼治療だった。

少し緊張気味で医院のドアを開けたとたん、カウンターの奥に座っている先生と目が合った。

その時、たった一瞬で
なぜか私はこの先生なら、自分の全てを完全に任せられる人だと悟ってしまった。

今でも不思議でならないあの時の感覚。
それ以来ほぼ4年間のあいだ、いつも私は先生に救われていた。

それは、体を治して頂くだけではなく、それ以上に心を、魂を、理解し支えて励ましてくれていたからだった。

自分の生き方に自信を無くしている時、先生はいつも「ティダさんは、そのままでいい。今歩んでいる道は間違っていない。」と教えてくれた。

行くたびに、治療の後で色んな本を出してきて「読んでみぃ」と言う。
私は何も言ってないのに。でもそれらは全て、私が知りたいことばかりだった。


先生に出会って、私の心は急激に脱皮していった。いつの間にか私にとって、生きることそのものの意味がそれまでとはぜんぜん違っていった。


私は、生まれて初めて

本当に私を、私の生きる道を理解してくれる人に出会えた。

先生は、私の魂と対話してくれるたった一人の人だった。

なのに・・・・


どうして!!!!

どうして逝っちゃうの!!!!
何が起こったの、何が先生を奪ったの!!!


ほぼ2時間、涙が止まらず泣き続けた
自分の心の半分が無くなった気がした

「先生のところに行きたい」と泣く私を
相棒はずっと抱きしめていた
何も言わず一緒に泣いていた

先生・・・・先生・・・・
どうして・・・・
どうしてですか・・・・

新年快楽!

2004年1月3日

明けましておめでとうございます!!

今、東京の実家に来ています。
皆さんはどんなお正月をお過ごしでしょうか?


これから、母と2人でお台場へ。
その後はお正月らしく、東儀英樹さんの雅楽コンサートを堪能してきます♪

男性陣(父・弟・叔父・相棒)はゴルフに行きました。この面子だと、新春から色んなことをやらかしてそうなので、帰ってきたら話を聞くのが楽しみ・・・!
すでに数々のネタが飛び出している、盛りだくさんのお正月。

じっくり書けるのはもう少し後になりそうです。

それではみなさん、ひとまずご報告まで!



ひと晩眠って スッキリ♪

昨日の日記をもう一度書きますネ。


*〜*〜*〜*〜*〜*〜


ギターのレッスン納め。
今年も本当に楽しかった♪

先生や一緒に習っている人との相性も良くてストレスフリーな上に、大好きなギターを思い切り弾けて・・・楽しくないはずが無いよね!


でももっと上手くなって、友達と一緒に歌いながら弾いたり、ギターが上手な人とデュエットできるようになりたーい!
よし、これは来年の目標ね。


ニッコニコしながら家に帰って
それからもギターを弾き続けていた。

夏川りみのスコアブックを買ったので、知っている曲を片っ端から弾き語り。

涙そうそう・島唄・花・安里屋ユンタ・・・・


童神、いい歌だよねぇ。

でもサビしか知らないから他のとこはストロークがテキトー。CD借りて聞かなくっちゃ。
その時、全く不意に

ある歌詞のところでボロボロッと涙が出た。


「???」

自分でもびっくりして、改めて歌詞を見る。


”ゆういりよーや ヘイヨー ヘイヨー”


この歌は琉球語で歌われていて、訳詞が乗っていたんだけどその意味は

”どうか良い子に”
(ヘイヨーは合いの手だね)

となっていた。

うう。     やっぱり。


私の”泣きのツボ”で、一番敏感なのが「祈り」なのよ・・・。


この言葉はまさに、母が子に思う祈り。いや、子供自身に言っているのではなく、「どうか健やかに育ちますように」と神様に祈る気持ちだと思えた。

と言うのも、前後の歌詞の意味が


お天道さんの光浮けて
どうか良い子に
どうか何事も無く育ってね  (訳詞より)


ってなってるから。


それにしても

”ゆういりよーや”のところを歌って涙が溢れてきた時、私はまだその言葉の意味がわかっていなかったのに・・・。


言霊(ことだま)の、作用だね。


頭で理解するより先に、言葉の持つ波動が直接心に響く。外国語でも同じことだろうなぁ。


だから

「よーく考えよー♪ 言葉は大事だよー♪」


まあ 

そんなことをつらつら思いつつ

こんな年の瀬に、まったりとした1日を過ごした今日の私でした。

嵐の前の静けさ・・・・ってやつね。


*〜*〜*〜*〜*〜*〜


昨日は、だいたいこんな様なことを書いた。

さて、今日。今はまだお昼前。

相棒が帰って来ます、たぶん3時頃に京都駅まで迎えに行くと思う。

今は、何だかイイ感じに心が落ち着いてます。
スッキリと道が見えていて、自分の足元も明るくて、あとは行動するのみ!という感じ。

何よりも、肩の力が抜けてるのが嬉しい。

昨日の夜も友達に電話してずっと聞いてもらったら、話しているうちにどんどん心が静かになっていった。
最後に、「あんまり頑張り過ぎないでいいよ、ありのままで。」と言ってもらい、本当に嬉しかった。
今年・・・・今年は、ほんっとに色んな事があった。

嬉しいことや辛いことがたくさんあったんだけど、どんな1年だった?と聞かれたら


「楽しかった」と即答しちゃう♪


辛かったことを忘れるのは、私の得意技の1つかも知れない。
あ・・・。これは母から受け継いだDNAよ。

みなさんはどんな年だったのでしょう?


地球は回る・・・・

     世界中に等しく

         陽が昇る・・・・


そして生まれ来る

         新しい時

やはり 祈らずにいられない

 
             幸多かれと!

ああああああああああ

がっっっっっくし。


長々と書いた日記

なんか変なボタン押して

きれいサッパリ消してしまった



・・・・・・・・




撃沈。 




みなさん

ごめんちゃい。



明日、立ち直ってから
もう一度書きますぅぅぅぅぅぅ

号泣。



終わったあ〜・・・・・・・。


クリスマスと年賀状書きが終わった〜。

特に年賀状、私は今時珍しく手書きします。
友達関係は書いてても楽しくていいんだけど、仕事関係は小学校の授業よろしく書道セットを出してきて、墨をするとこから始めるのだぁ。

毎年思うけど・・・もっと上手くなりたいな。

それにしても虚脱感。毎年この時期に陥るこの感覚、放っとかれたら果てしなくボーッとできそう。

しかーし、現実は私を放っといてくれないわ。


まずは今年最後の大ニュース
4年間単身赴任していた相棒が、来年1月末に帰ってくることになった。

いやぁ〜長い間、本当にお疲れ様。
いいオッサン(失礼!)になってからの1人暮らし、きっと楽しくも苦しい経験だっただろうなぁ。


そんなこんなで、相棒にはモチロン吉報だったが・・・私は複雑な心境よ。

何しろ生来の「気まま人間」である私が、身の程知らずに結婚などしてしまったわけで、それでも何とか(爆っ!)10年間は相棒と暮らしてきた。

そして、彼の単身赴任。

そりゃあ最初は、寂しくて泣いた夜もあった
(↑・・・遠い目)

でもすぐに、自分のために使える時間が増えたことを満喫し始めたのよね♪
そう、4年間は早いようで短かったような。

先週相棒がこっちに帰ってきていて、今後の2人のことをじっくり話し合うことができた。

外で食事しながら、はたまた一緒に入ったお風呂の中で、私達は冷静に真剣にお互いの心を偽ることなく思う存分話した。

そして、結論らしきものが出た。


私達は、夫婦の絆を一度白紙に戻す。

・・・・いえいえ!

離婚ぢゃありません。驚かせちゃってゴメン。


ちょっと前の日記にも書いたけど、私達が離れて暮らす間に少しずつ大きくなってきた気持ちのズレ。
お互いにとって「夫婦」と言う関係の捉え方が食い違ってきたというか、もともと潜在的に持っていたものが水面に上がってきたのだ。

子供のことも、そのひとつに過ぎない。
私達は、お互いを良く知っていると思い込んでいたけど、実はきちんと見ていなかったし素直に表現していなかったのだ。

だからもう一度、今までの2人の関係に捉われることなくお互いを見つめ直すことにした。


私は、私なりにこの数年間

彼と自分のことについて浅く深く、悩み続けていた。答えはすぐそこにあるようで実はどこにも無かった。

そして彼が言った言葉に、私は救われた気がした。

「お互いに、本当にもうだめだと思ったらその時は別れればいい。」

これに救われたって、変?


その時ね、私はつくづく自分が「自由」でありたい人間なんだってわかったの。

言葉や行動で縛られることに、人並み以上に嫌悪感を抱いてしまう。制約や限度に枷をはめられることが怖くて、反射的に逃げたくなる。


ハイ、おっしゃるとおりです。

私はそもそも、結婚なんかしちゃいけないんです。迷惑です。


相棒は、性格的に私の対極にいると言ってもいい。だからこそ、私の極端な考えや行動を緩和してくれる貴重な存在だ。
似たもの夫婦ってのもあるけど、私達の場合はお互いの過不足を中和する関係なのだろう。


でも、気をつけなきゃいけないのは、一方が極端に耐えなければならないような人間関係は長くは続かない。

この国のこの時代の、一般的な「結婚」と言う制度に不向きな私と一緒にいて、相棒が不幸になってはいけない。

かと言って、私は体中に発疹を作ってまで自分を欺くことができない・・・。いや、それは相棒にしたっておなじことだろう。


本当にダメだと思ったら、別れればいいという夫婦のあり方に違和感を感じる人ももちろん多いはず。
全く、おかしな話だ。今更何を言うか。

でも彼がそう言った時、私は心の枷が外れた気がした。
それはやはり、一度夫婦として契りを分かち合った仲なら、死ぬまで添い遂げるべきだと自分に言い聞かせていたからだ。


これから私は、肩の力を抜いて相棒を見つめなおすことができる。自分にとってこの人は何なのかを、真っ白なキャンバスに向かう画家のような気持ちで考え始めることができる。


いつ、2人の関係に答えが出るのかはわからない。数ヵ月後か・・・数十年後か。

人を愛するとは、どういうことなんだろう。



今、確かに感じていることは

こんな私を簡単に投げ出さないでいる
相棒・・・彼と言う人間に対する

畏怖に似た感謝の気持ち。


だから私も、偽らずそれに応えていきたい。



祈りの夜

2003年12月25日

どうしたの 君らしくない

ふさぎ込んだ顔をして

でも今の君を そんなにも

悲しませているのは単純なこと



分け与えることができるなら
奪い合わなくていい

手放すことができるなら
疑わなくていい

受け入れることができるなら
失わなくてもいいんだ










ほら


ねぇ

こっちへおいでよ

ひと晩中 歌ってあげる


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